オチのないindulgence

ここだけの話をしよう

ある閉ざされた冬の劇場で──映画「ある閉ざされた雪の山荘で」に寄せて

ご無沙汰してます。

前エントリから半年以上経っている事実に震えが止まらん。ご無沙汰してる間に自軍のグループ名が変わっています。定期的にある程度まとまりのある文章を書かないとどんどん感覚が鈍っていくので、2024年はもう少し事ある毎にさくっとブログを書きたい所存です。2万字とか書くから心理的ハードルが上がるんだよね。

 

皆さん、話題の映画『ある閉ざされた雪の山荘で』|大ヒット公開中!はもうご覧になりましたでしょうか? 私は4回観ました。重岡担じゃないのに。

もちろんWESTꓸのオタクとして興行収入や動員数に少しでも貢献したい〜!という気持ちがないわけではないし、我らがセンターの演技力は筆舌につくしがたいし、エンドロールに流れる「WESTꓸ」というグループ名には毎度グッときていますが、それだけならここまではリピらないんだよな。

 

私が閉ざ雪をリピる理由。それは、この映画でしか味わえない感覚があるからです。

 

そりゃ一体何ぞや?というところをお話するためには、この映画の根幹に触れざるを得ません。つまりここから先は大ネタバレです。映画をご覧になった上でこの続きを読んでいただきたい。ほんまに。お願い。この程度の文章で観る気になるかァ❗️というちゃぶ台返しは受け入れるので、なんでもいいからとりあえず映画を観てください。(必死)

あっ、これ原作だけ読んでる人にも言ってますからね…!?閉ざ雪に限らずそもそも小説と映画は異なる見せ方をする媒体ですが、この作品はマジで、もはや別物のエンターテインメントなので。だからって「なんだ原作と違うのか」で映画館に行く足を止めないで!!お願い!!!

 

 

 

 

 

言いましたからね? 大ネタバレですよ?

 

 

 

 

 

 

 

 

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あらすじ。

 劇団「水滸」の次回公演最終オーディションとして、あるヴィラに招かれた7人の役者──本多雄一、雨宮恭介、中西貴子、笠原温子、田所義雄、元村由梨江、そして唯一水滸の劇団員ではなくフリーの役者である久我和幸。

到着すると劇団の主宰である東郷からの、「大雪の中、山荘に閉じ込められた7人の役者がある事件に遭遇する」という架空のシチュエーションを4日間に渡って演じろとの指示を受け取る。至るところに仕掛けられた監視カメラ、意味深に7冊置かれた小説「そして誰もいなくなった」……

初日の夜に早速"犠牲者"になったのは温子。温子が殺されたという"設定"の下、推理劇のようなものを演じようとする役者たち。

次の日の夜には由梨江も"犠牲者"となる。しかし、"凶器"という"設定"であるはずの花瓶には血糊ではない本物の血が付いていた。この花瓶の発見をきっかけに、残された5人はこれがオーディションの蓑を被って実際に起こっている殺人事件なのではないかという疑いを持ち始める。

そこで、5人は水滸の劇団員の一人であった麻倉雅美と事件が関係している可能性に辿り着く。オーディションに落ち実家に帰った雅美を、温子と由梨江そして雨宮は励ましに行ったのだが、そこでの諍いをきっかけに雅美は事故に遭い、下半身不随で車いすなしでは生活できなくなる。二度と舞台には立てない身体になってしまったのだ。雅美に憎まれていることと雅美の協力者が自分をも殺そうとしているかもしれないことに怯えた雨宮は離脱しようとするが、本多が「全て東郷先生の手の上」であるという可能性を提示し、全員そのままヴィラに残る。

翌朝、最終日の朝。案の定雨宮が"犠牲者"となった。前日の行動から本多雄一を怪しいとにらんでいた久我和幸は、田所・貴子と共謀してお互いにアリバイを作り、本多を犯人だと名指しする。本多はそれを認め、自分が3人を芝居に見せ掛けて殺したと宣言する。

監視カメラに合わせて置かれた盗聴器の存在から久我は、実際役者たちの動向を監視しているのは他でもない麻倉雅美であり、彼女がすぐ側にいることを確信する。久我の予想通り、雅美は山荘内の隠し部屋にてカメラを通して全てを見届けていた。

しかし久我はここでもう一つの指摘をする。本多が3人を本当に殺していたのならばありえないはずの状況証拠を並べ、本多は「雅美の代わりに3人を芝居に見せ掛けて殺す」フリをしてそれを雅美に見せたのだと断言する。そして、"犠牲者"ではなく"共犯者──共演者"であった温子、由梨江、雨宮が再びそこに現れたのであった。

自分が本多に嘘をつかれていたこと、憎んでいる3人がまだ生きていることに雅美は激昂するが本多がそれを止める。3人は雅美に改めて謝罪をし、本多や久我、貴子や田所は「生きて(また)一緒に芝居をやろう」と雅美を励ます。

雅美は号泣し、

 

ここで舞台が大きく変わる。

山荘から劇場のステージの上に変化し、8人もかっちりした服装に身を包んでいる。 そう、これまで観客が観ていたのは劇団水滸の公演「ある閉ざされた雪の山荘で」だったのだ。本編を終えた役者たちは舞台袖で談笑し、そしてカーテンコールで再び観客の拍手を浴びる──。

 

 

……はい、大筋はこんな感じです。端折った部分もかなり多いんですがそれはまあ映画を観ていただいて。

震えましたね。初日朝イチで行ったんだけどもう映画館出るとき脚ガクブルだった立ち寄ったお手洗いでトイレットペーパーを巻き取る速度とんでもなかった(どこに興奮を発現しているんですか?)。

この映画の主題歌は我らがWESTꓸの「FICTION」*1なのですが、もうこの曲のサビにある通り「どこからどこまでフィクション⁉️⁉️⁉️」状態。

凄いんですよ。映画でこんなことをやられるなんて思ってもみなかった。

 

前提として舞台の話をするんですけど。

舞台(演劇)って、最近は配信なんかもするようになったけど基本的には観客がわざわざ劇場に足を運んで、そこで生身の役者が空気以外のものを媒介せずに虚構を演じるものじゃないですか。私は一応演劇を人並みよりちょっと多めくらいにはかじっていて、全然専門的じゃないながらに「そんな舞台だからこそできること」をやってくる舞台が結構好きなんですね。実際そんな舞台を作る側の立場に立ったこともある。

例えばキャストが観客に交じって座っていて、客席からキャストがセリフを発したり。キャストが急に「自分たちが演技を観られている役者」だと自覚してメタ的な展開を繰り広げたり。観客に自分が物語の登場人物の一人であると錯覚させたり、その逆で自分たちが芝居を観ている観客にすぎないとあえて我に返らせたりする。WESTꓸ関連だと、流星くんが主演していた「NOISES OFF」なんかはその一例だと言えます。それって、同じ空間に演者と観客がいる舞台だからこそできる挑戦だと思うんですよ。思ってたんですよ。映画閉ざ雪を観るまでは。

 

えっ、映画でそれやる!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?

 

脚の震えの原因はまさしくこの驚きでした。スクリーンというどうやっても越えられない壁がそこにあるのに。これはずっと前に撮影された映像なのに。私たちは舞台「ある閉ざされた雪の山荘で」の観客であると錯覚させられ、同時に映画「ある閉ざされた雪の山荘で」の観客であると自認させられたんです。なんっ……何………………三重構造どころか四重通り越して五重構造じゃん………………………………………………………

 

実際どこからどこまでフィクションなのかは映画を最後まで観ても分からない。雪の山荘での殺人劇は本当にあったの?雅美はあそこまで3人を憎んでいたの?田所は由梨江ちゃんに対していつもあんなにキショいの?温子は演出家と寝てんの?久我は本当に部外者なの?雅美は本当に下半身不随なの? 分からない。分からないんですよ。これに関しては私も友達と解釈大乱闘スマッシュブラザーズを繰り広げているところですが、正直答えは出ないと思う。提示されてないんだもん。

こうやって「もはや全てが謎」の顔をせざるを得ないような結末を示し、もはや感情移入させる隙などどこにもない。もう感情移入どころじゃない、考察考察。

恐ろしい映画だと思います。

 

原作は小説だからこそできる読者をあっと驚かせる仕掛け──俗に言う叙述トリックが使われていて(これも言及したいのですが、この驚きはまた原作を読んだ人にこそ感じてほしい。東野圭吾すごい)、映画はそのトリックを封じられたから別のトリックを観客に仕掛けていた。正統派のメディアミックスではないと感じられるかもしれない。でも、これも一種の答えだよね。そう思わされました。

 

この体験、この映画でしかできないんだよ。知らんけど。

だから私はリピり倒しています。何度でもこのゾワゾワを感じたくて、そして考察を深めたくて。

完全に自己満でこの文章を書いていますが、もしこれを読んだ方が「もっかい観てみるか〜」と感じてくれたらそんなに幸せなことはないです。スルメ映画だよ。もっかい行ったほうがいいよ。コミュ障オタクなので現時点では全部一人閉ざ雪だけど、声掛けられたら全然一緒に行くよ。 皆さんも是非、「ある閉ざされた雪の山荘で」をどうぞ!(誰?)

 

happinet-phantom.com

*1:自覚的なのか無自覚なのか、ほぼWEST担自我を亡きものにしてこのブログを書いていますが、この主題歌はマジで贔屓目なしに映画閉ざ雪の主題歌として完璧だぞ。ぜひ。


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