オチのないindulgence

ここだけの話をしよう

幽霊はここにもいるのか──舞台「幽霊はここにいる」に寄せて

先日大千穐楽を迎えた、ジャニーズWEST神山智洋くん主演の舞台「幽霊はここにいる」。私は当日券キャンセル待ちやら一般やらで財布の許す限りチケットをかき集め、5回観劇することができました。

 

ドームツアーが終わったそばから髪を黒く染めた神山くんに期待し、「これは何かがある」と約1か月ほぼ毎晩夜更かしをして迎えた9月15日の朝が懐かしい(不健康にも程があるよ)。安部公房作」「PARCO劇場の文字で、無学な私にも神山くんがまたまたとんでもなく難易度の高い舞台に挑戦することが分かった。神山くんは言わずと知れたシェイクスピアの名作「オセロー」で難役イアーゴーを務め上げたこともあれば、現代戯曲の最高傑作との呼び声も高い「LUNGS」では円形の何もない舞台にたった2人、絶え間ないセリフの応酬を繰り広げたこともある。そんな神山くんを演劇界が放っておくはずはないのだ。放っておくはずはない(ので発表された演技仕事が舞台だったというのは納得な)のだが、これはこれでたいへんに難しく、先述の2作品とは異なる角度の体力と精神力を必要とする舞台だろう。9月15日の時点でそう思った。

 

観劇前の気持ちを長々と書いていても仕方がないので、あらすじを説明しつつ観劇後の感想、パンフレットや1958年版の戯曲を読んだ上での考察、飛躍した思考その他諸々を書き連ねていこうと思う。もちろんネタバレを多分に含むので、避けたい方はご注意ください。

 

 

 

「幽霊はここにいる」というタイトルの通り、この物語は「幽霊」と彼に翻弄される人々を描いたものである。神山くんが演じたのは「幽霊」が見える男、「深川啓介」

深川は戦友であった「幽霊」の身元を探すべく死人の写真を買い集めようとしているのだが、金がなくそれができかねていた。そんなところ、深川はとある浮浪者・大庭三吉と出会う。「幽霊が見える」だの「鏡を見ると頭痛がする(からなのか、アスピリンを持っている)」だのおかしなことばかり言う深川を当然怪しむ大庭だが、深川を利用すれば金が稼げるのではないかと考え、言葉巧みに深川に取り入る。

大庭は、8年前に起きたとある事件の重要な関係者であったため、住んでいた北浜から逃れていたが、このタイミングで自宅である「ヒカリ電気」に戻ってくる。家を偵察し、妻・トシエと娘・ミサコが2人でなんとかやりくりしてヒカリ電気の看板を掲げ続けていること、そしてトシエには少しばかりの貯金があることを把握した大庭は深川を連れて家に入るが、8年も便りなく家を空けていたにもかかわらず、戻ってきたと思ったら「幽霊」などととんでもないことを言い出す男(深川)を連れている大庭にトシエとミサコは呆れ返り締め出そうとする。トシエは8年前の事件を目撃した証人を知っていると言って大庭を動揺させようともするが、大庭は2人を言いくるめ、トシエの貯金には頼らないと言いながらヒカリ電気にて新たな商売を始める。

 

8年前の事件のことを掘り返されたら困る人間は、大庭以外にも何人かいた。町の権力者である鳥居兄弟(兄は金融業者・弟は新聞経営者)、まる竹(土建業者)、北浜市の市長である。大庭が北浜に戻ってきたことを察した権力者たちは、彼を警戒し、鳥居弟の新聞社の記者・箱山義一に動向を探らせる。

 

「高価買います 死人の写真」───「幽霊」のことは伏せたビラ。深川と大庭が貼ったそのビラを見て、さっそくとある市民が死人の写真を売りにやって来る。写真を預かり、死人の身の上を聞き出した深川と大庭は、代金の預り証だけを握らせてその市民を追い出す。

数枚ばかりの写真を集めた深川たちだが、「幽霊」が言うには彼以外の幽霊たちも噂を聞きつけ、自分の身元が知りたいと大騒ぎしているとのこと(深川には戦友の「幽霊」以外の幽霊は見えない)。偵察がバレて「記事を新聞に載せること」と引き換えに中に招かれた箱山や大庭一家が見守る中、深川は幽霊たちを前に、集めた死人の写真とその死人の身の上調査票を晒し、心当たりがないかを幽霊たちに伺う。そして、「幽霊」が深川に通訳して教えてくれる幽霊たちの特徴をノートに書き留めていく。

 

箱山が書いた記事は、瞬く間に町じゅうの話題となった。信じる者も信じない者も、恐れる者も縋る者も、皆「幽霊」の話をしている。トシエやミサコは馬鹿馬鹿しさに呆れ、預り証を出されて求められる金もない事実を改めて大庭に突きつけるが、そこに最初の客がヒカリ電気に慌てて戻ってくる。あの程度の金額で幽霊に祟られたくはないと、写真を取り戻しに来たのだ。そこで大庭はまたも巧みな話術を発揮し、なんとその客に写真を高く売りつけて利益を得てしまった。「今度は戻ってきても困らない赤の他人の写真を持ってくると良い」とまで吹き込んで。

 

「幽霊」を巻き込んだ商売は町を席巻していく。「幽霊に病気を治してもらいたい」「幽霊ならスパイはお誂え向きだろう」と願望を満たすために幽霊を利用しようとする者もいれば、「写真屋を開業して原版を保存しておけば後々大庭のところに高く売りつけられる」「死人がたくさん映っているであろう軍人のアルバムを盗むのが良い」などと大庭らを利用してさらに金儲けしようとする者もいた。

 

深川はこの大庭のやり方に「ちょっとあくどすぎやしないかな」と疑念を抱き始めるが、「幽霊」はそうではなかった。(「幽霊」のセリフが観客に共有されることはないのでブログ筆者の憶測を含むが)「幽霊」はこの事態にすっかり気を良くしていたのだ。そんなところに水を差した深川は、「幽霊」に殴られてしまう。最初は殴ったって痛くもないと豪語するが、次第にそれは深川自身が感じる頭痛になっていく。

ミサコも「役に立つものがちっとも売れないで、ありもしないものがどんどん売れる」ことに腹を立てていたが、トシエはうまいことこの波に乗っていた。大庭の弱みを握っているのをいいことに、目撃者の口止め料としてなかなかの額を大庭に請求していたのだ。母親にも失望したミサコは「死んじまったほうがマシ」と口走るが、「幽霊」に「もし死ぬなら自分の前で死んでくれればミサコさんを見失わないで済む」などと(深川の通訳を通して)言われてしまう始末。

箱山ははなから深川のことを「気の弱い気狂い」扱いしている。ミサコが親の幽霊商売に不信感を抱いているのを察して近づこうとする。そこで偶然、2人はある男が身投げをしたのを目撃してしまった。

 

その頃、大庭は町の権力者たちに商談を持ち掛けていた。大庭自身と権力者たちを中心とした「幽霊後援会」なる組織を作ろうという話である。大庭のインチキで幽霊の存在を感じざるを得なくなる権力者たち。土建業者のまる竹は「幽霊会館」建設の話に食いつき、市長も大庭の「日本じゅうの幽霊の推薦となれば県会議員や代議士にもなれるだろう」というおだてにまんまと乗せられる。

幽霊後援会の話がまとまりかけた頃、箱山が身投げの報せを持って駆け込んでくる。その身投げは「幽霊の話を読んで自殺を決心した。これは実験だ。自分が幽霊として出てきたらそれが私だと知らせてくれ」といった内容の遺書を伴うものだった。しかしなんとここでも大庭は、幽霊になっても身元を確認できるよう手数料を積み立ててもらう「幽霊保険」というビジネスを考え付いたのである。金融業者である鳥居兄をはじめ権力者たちも大賛成。忠告しに来たはずなのに事態を加速させる結果となってしまったことに箱山はすっかり呆れるが、都合の悪いことを言うなと鳥居弟に容赦なくクビにされる。

 

ミサコは深川に「あなたのせいで人が一人死んだ」と詰め寄っていた。「幽霊」があまりにもいい気になっていることと、深川が「幽霊」の言いなりになっていることが不満なミサコは、「幽霊」がミサコに想いを寄せられている(と深川が言っている)にも関わらず、「『幽霊』はもっと遠慮をすべきだ、深川さんも『幽霊』の言いなりになりすぎることはないはずだ」とまくし立てる。深川は戦友を見殺しにしてしまった強い罪悪感から「僕は単なる彼の代理なんだから」と「幽霊」の言動をほぼ丸ごと受け入れていたのだ。ここまで来ても「幽霊」の言いなりであり続ける深川にも、ミサコは呆れてしまう。

そこにトシエが、深川を相手に交通事故の写真を売ろうとやってきた。トシエも信用ならないと踏んだミサコは、母が父を脅しているネタである「8年前の事件の目撃者」が誰なのか自分にも教えてほしいと詰め寄る。トシエはそこで、事件の目撃者は実は自分なのだとこぼす。

 

深川の頭痛はどんどん酷くなり、彼を苦しめていく。明らかに用量を超えたアスピリンを一気に飲み下す深川。

 

幽霊後援会の発会式がきらびやかに行われている。司会の大庭を中心に、会長である市長をはじめとした権力者たちや深川、そして「幽霊」も参加していた。「幽霊服」(幽霊ビジネスの一環。観客にはまるで下着以外見えない)のファッションショーも行われ、「幽霊」と深川が考えたスピーチを深川が叫ぶ。式はどんどん派手でにぎやかなものになっていくが、突然「幽霊」が後援会の会長になりたいと言い出す。その後のテレビ出演では「後援会会長だけでなく市長にもなりたい」「市長になるのに未婚だと不利なら、ミサコと結婚したい」とも発言する(これらは全て深川の通訳を通している)。権力者たちも黙って見てはおけないはずだが、幽霊ビジネスから利益を得ているため「幽霊」の機嫌を損ねることができないのだ。

いよいよ「幽霊」の暴走が始まった。この異常な事態をひっくり返したい箱山は、深川を「幽霊」から引きはがしたいミサコに近づくが、ミサコは一蹴する。

権力者たちは頭を抱えていた。「幽霊」の機嫌を損ねずに、彼に市長を諦めてもらう方法はないのか。ミサコも「幽霊」との結婚を断固拒否していて埒が明かない。ミサコの代わりにならないかと用意したモデル嬢にも、「幽霊」はまったく靡かない。

 

そこにミサコが、とある男女を連れてやってきた。深川は彼らを目にした瞬間、驚きで固まってしまう。

男は、本物の深川啓介だったのだ。

彼が現れた瞬間、「幽霊」は消えてしまう

 

これまで「深川」を名乗っていたのは、深川の戦友であった「吉田」という男だった。吉田は戦友を見捨てたというショックのあまり自分と「深川」を取り違えて認識し、ずっと「戦友の幽霊」という幻覚を見ていたのだ。戦友は生きていた。捕虜になって離れ離れになり、後になって「深川(吉田)」の事情を把握した本物の深川が、全ての種明かしをしていく。吉田はこれまでずっと嫌っていた鏡を見つめ、自分が深川啓介ではないと気が付いた。ミサコが連れてきた女は吉田の母だった。吉田は戦友と母との再会を果たしたのだ。

 

こうなると困るのは大庭と町の権力者たち。幽霊ビジネスでおいしい想いをしていたのに「幽霊」がいなくなるなんてと狼狽する。吉田やミサコらを閉じ込めてスキャンダルの隠蔽を図るも、ミサコは「8年前の事件のことを知っている」という切り札を使って権力者たちを黙らせてしまう。大庭とトシエも都合よく一緒になってその場を去る。

 

権力者たちは途方に暮れていたが、同じくしてそこに残っていたモデル嬢が「同じことじゃない、最初からいやしなかったんだから」と、存在しない幽霊との結婚を承諾する。モデル嬢は新たに「幽霊」を生み出し、ふてぶてしく「幽霊」の要求を権力者たちに呑ませていく。

 

吉田親子や本物の深川、大庭一家が揃っていたところに箱山が飛び込んでくる。「続き」をやっている異常な権力者たちのことを伝えに。しかし本物の深川は「どうだっていい」、ミサコも「結局は反市長派から見返りが欲しいだけでしょ」と歯牙にもかけない。

この話を聞いて悔しがっていたのは大庭夫妻だけだった。今度の幽霊は自分のことなんか相手にしないと項垂れる大庭に、トシエは「あんたも幽霊が見えることにしちゃったらいい」と吹き込む。「8年前の事件の目撃者」が自分であり、「口止め料」も貯めていたことをトシエから聞いた大庭はすっかり水を得た魚の如く元気を取り戻す。

 

こうして、北浜市の幽霊ビジネスは続いていく。

 

 

…とまあ、幽霊とそれが見える男のハートフルストーリーなのかと思って行ったら(それはそれで思慮が浅い)難解な社会派作品でしたという、非常に考えさせられる作品だった。前提として「幽霊はここにいる」のストーリーを大雑把にでも把握したうえで読んでいただきたいので長々とあらすじを書いてしまったが、ここからが本題であるようなものです。

 

最初はFC先行の1枚きりしかチケットを持っていなかったが、初日が始まって以降の一般チケット再販売や当日券キャンセル待ちを駆使した結果、より多面的に舞台を楽しむことができた。結末を知ったうえで、パンフレットを読み込んだうえで、原作を一読したうえでもう一度頭から通して観劇すると、毎回毎回印象がまるで変わってくるのが本当におもしろかった(funnyではなくinteresting)。もちろん舞台というものは「なまもの」であり、何回見ても同じ映像が流れるドラマや映画とは違ってそのときにしかない呼吸を感じられるのだから印象が全く同じなわけはないのだが、それを踏まえても前提知識や日頃の思慮によって観劇後に得る感想がまるで違うのだろうと、自分の実体験を通して実感した。この点においては昨年観劇した神山くん主演舞台「LUNGS」でも似たような感想を抱いたが、「LUNGS」に対しては「この星に生きる人間の話」(バカデカ括り)と感じたのに対して、「幽霊はここにいる」は「この社会に生きる人々の話」であると感じた。「LUNGS」の話は主題ではないので割愛する。

ここからは全て私の偏った解釈を前提とした文章なので悪しからず。

 

 

「幽霊ビジネス」のからくり

パンフレットにもそういった内容の記述があったが、この舞台は「幽霊」が見える「深川」と自称する男を中心に、金もうけをしたい大庭が場を回していき、それを箱山が俯瞰するという展開が続いていく。(以下この神山くんが演じていた男のことを括弧書きで「『深川』」と表記する。同じく、「深川」に見えている幽霊のことを括弧書きで「『幽霊』」と表記することで、他の幽霊及びありもしないものと区別する) 大庭に翻弄されるのがトシエや権力者たちであり、ミサコは「深川」に想いを寄せつつ「幽霊」を疎ましく思っていて、またこの展開をすべてぶち壊すのが本物の深川啓介なのだが、メインキャストとして名を連ねているのがこの3人であるということを踏まえてもこの3つの立場をそれぞれ考えていくのが分かりやすいと考えた。まずは大庭の立場である。

 

幽霊という見えないものをきっかけに、どんどん話が大きくなって、庶民を巻き込んだ狂乱の騒動に発展していく。戯曲を読んで、「バブルってきっと、こういうことなんだな」と思いました。実体を持たないままにすごく大きなお金が動いて、みんながそこに乗っかって、楽しいような気がしている。

(舞台「幽霊はここにいる」パンフレット 堀部圭亮さんインタビュー)

 

これは鳥居弟を演じた堀部さんのコメントである。お恥ずかしいことにこの文章を読んで初めて、「この舞台はファンタジーでもホラーでもなく社会派リアリティショーであろうとしている」という思考に至った。

ミサコが父たちの進める「幽霊ビジネス」にうんざりしているタイミングでこぼす「役に立つものがちっとも売れないで、ありもしないものがどんどん売れるなんてどうかしてるわ!」というセリフに表れている通り、傍から見たら異常なやり方で金が動いている。大庭や権力者たちが次第に「幽霊はいる!」と強く主張するようになるのも、幽霊の存在を信じていることにすれば金を生み出していい思いをできるからにすぎない(「深川」のみ本当に「幽霊」が見えているのだがそれは後述する)。

大庭らは自分たちに、自分たちの金儲けに直接関わらない死のことを大したことだと捉えていないし、何ならその死さえ金儲けに利用しようとしている。それは「身投げした男の話を聞いて幽霊保険を考えつく」というエピソードからも伝わってくる。

気が狂っている。

箱山の立場も後述するが箱山も、傍観している観客もそう感じる。でもそれは、戦後を必死で生き抜いてきた彼らなりの生き抜き方なのだ。「何をするにもまず金だ、金がなきゃ何にもできやしないんだ」というセリフがある通り、手段を選ばず金を生み出すことができる人間が戦後の時代を生き抜いていけたのだ。2022年の日本を生きている私たちが冷笑できるものではない(どころか全く他人事ではないのだがそれも後述する)。

詐欺師と呼ばれた大庭が反論するシーンのセリフも印象的だ。

「いいか、これ(ハンカチ)に35円の値打ちがあるってのはな、他でもない、これに35円払ってくれる人間がいるからさ。物でも人間でも、値打ちってものはな、他人がそれにいくら払ってくれるかで決まっちまうものなんだよ。金を払うやつがいりゃあそれが値打ちになる。世の中にはな、だいたい詐欺なんてものはありゃせんのだ……」

この思想を持つ大庭が、うまいこと権力者たちを巻き込み権力を手にし、「狂乱の騒動」を先導しながらそれに積極的に飲み込まれていく様が、傍から見て非常に滑稽であると同時に見ていて思わず背筋が伸びるものなのである。ただただ滑稽という感想を抱く観客がいるとしたら、それは八嶋智人さんの圧倒的な「滑稽に魅せる」実力であるといえるだろう。

「深川」と「幽霊」もこの大庭の考えに共感し、大庭は「深川」を利用して金儲けを始めることになる。あっという間にこの力関係は逆転するのだが、それもまた後述。

 

「物でも人間でも、値打ちってものはな、他人がそれにいくら払ってくれるかで決まっちまうものなんだよ」という思想に基づいて、「役に立つものがちっとも売れないで、ありもしないものがどんどん売れる」社会。傍から見たら気が狂っているとは言ったが、果たしてこれが完全にフィクションであり自分に全く関係のないものと言えるだろうか、エンターテインメントにお金を溶かしているオタクの皆さん?(急にフランクに読者に話しかけないでください)

 

私も例に漏れずもちろん神山くんのファンとして、ジャニーズWESTが販売するCDやライブ及び舞台のチケット、神山くんがインタビューを受けている雑誌などなどを自分にできる範囲でお買い上げしている日々だ。正直に言おう、それらが私に直接役に立つことはない。そんなお金があるなら買ったほうがいい「役に立つもの」はたくさんある。まずバイトの昼休憩をおにぎり1個で耐えるべきではないし、散らかっている部屋を整理整頓するためにカラーボックスでも買ったらいいし、なんなら現場があるタイミング以外ボッサボサの髪も美容院に行ってなんとかしたほうがいい。でもこうはしない(さすがにしたほうがいいのでは?)。ギリギリまでそういうところにかかる費用を切り詰め、私はチケットを1枚でも多く手に入れるように努めながらCDやら雑誌やらを買う。クリアファイルなんてその辺のホームセンターに行けば5枚100円で売っているのに、自担の顔が印刷されているからと600円出して1枚買うのだ。しかもそのクリアファイルを袋から出して使用することはほとんどない。

私の母は特筆するほど誰かのファンになったことがない人間なので、オタクとしてはまだまだひよっこである私のこうした行動に全く理解を示してくれない。これまた誰のファンでもない高校生の弟はお小遣いをコツコツ貯めていて、バイトをしていないのに私より口座残高が多いくらいだ。私だって頭では分かっている、やめたほうがいい。

でもそうはしない。だって私は神山くんというアイドルが好きだから。神山くんというアイドルに、価値を感じているから。なんなら「これっぽっちの"対価"で神山くんとかいう素晴らしいお方のお姿を拝めていいのか?神山くんが発する言葉をこの値段で読めて、神山くんが提供する、私にとって最高で最強のエンターテインメントをこの値段で享受できていいのか?」くらいには日々思っている(あえて宗教じみた書き方をしていますが、わりとこの通りのことを考えています)。貧乏な私にはありったけの力で絞り出すような金額ではあるが、まあこれで神山くんと彼の作るものを見られるなら安いもんなのである。

 

何の話? 

そうそう、「自担/推しに価値を感じているからお金を出す」オタクという人間が溢れている現代日本のどこが「ありもしないものがどんどん売れる」社会ではないのだろうか、という話です。ましてや私は幻覚を見がちの思想強めオタクなので、私が私の脳内でこねくり回している神山くんが、神山くんのありのままの姿とは異なっていることも恐らく結構ある。もうそこまで来たら「幽霊ビジネス」と大差がないではないか。…神山くんご本人には何があっても絶対に読まれたくない文章が生まれてしまったところで、舞台の話に戻ろう。

市民の一人を演じていた稲荷卓央さんも話していた。

八嶋さん演じる大庭に、物の値打ちは誰かがいくら払うかで決まるもの、金を払う者がいれば値打ちになるんだという意味の台詞があるんです。これがすごいなと思いましたね。われわれ俳優も、絵や音楽もそういう存在ですから。この公演が投げ銭だったら? それは怖いなぁ(笑)。

舞台「幽霊はここにいる」パンフレット 稲荷卓央さんインタビュー

これをアイドルというこれ以上ない「偶像」を職業にしている人に演じさせ、そのファンに観劇させようとしたことの恐ろしさを感じずにはいられないが、それはまた最後にお話しようと思う。

 

なぜこんなビジネスが横行するのか? 答えは簡単、先ほども述べたが「お金になるから」である。大庭夫妻も権力者たちも幽霊が本当にいるかなんてどっちでもよくて、ただ金を動かして自分が得をできれば良いのだ。「役に立つもの」は実在しなければならないので、当然材料費と工賃が必要でその分手元に残る利潤は削れるが、幽霊をビジネスにしてしまえば当然材料費など生まれようがない。

例えば、ミサコに問い詰められたトシエはこう話す。「母さんは、おまえほど、ぜいたくじゃないからね……でも、どうやったら世間の波を乗切れるかは、知っているつもりだよ」 戦後、何をするにもまず金だった時代を必死で生きていくには、存在しないものにもすがるしかなかったのだ。それで金を稼げるならば。母親に「ぜいたく」だ、と言われたミサコは憤慨するが、実際ミサコは23歳。戦争が終わったときは16歳という設定だ。大庭が北浜を去ってからの8年間、トシエがミサコを女手一つで育て守ったという描写があるが、その通りミサコは守られて育ってきたのでトシエに言わせれば「ぜいたく」では確かにある(もちろん子供にその程度は「ぜいたく」をさせるのが親の役目であるともいえるが)。ミサコはこの戯曲を通して「大庭夫妻や権力者たちにはない価値観を持つ者」として描かれる。これから社会に出ていく「戦後の女性」であるミサコとその両親は、あまりにも生きている世界が違うのだ。

そしてこの1952年の北浜には、大庭ほどには頭が回らなくても、大庭と同じように「金になるなら幽霊だって何だって利用してやる」と考える人間が山ほどいた。彼らはまんまと利用される側に回ることになるのだが……。

 

 

傍観者でありながら、見事に掌の上

続いては、箱山義一という男について述べていこう。箱山は鳥居弟が経営する新聞社の記者という立場でこの騒動に巻き込まれることになる、この物語を観客とともに俯瞰していく立場の登場人物である。箱山について、演じている木村了さんはパンフレットでこう話している。

箱山は、安部公房さん自身を投影しているような役だと思います。みんなが一方に傾いているときに、一人だけ違う視点を持ち、いわゆる俯瞰で判断している。ただ箱山がどの領域から俯瞰しているかを考え始めてしまうと、お芝居どころではなくなってしまうし、本番に間に合わない(笑)。そして(中略)その時点で本当に生きて言葉を紡いでいかないと、どんどん台詞だけが滑っていってしまう。だからみんなが生きている場所で箱山を立ち上げる、そういう手法を今取っていて。さらに役だけではなく僕自身も現場を俯瞰で見るようにしつつ、どこか遠くへ自分が飛んでいかないよう、気をつけたいと思っています。

(舞台「幽霊はここにいる」パンフレット 木村了さんインタビュー)

八嶋 でも、箱山の、結末を知って記録したいという歴史学者かというくらいのその視点は、重要なんだよね。お客さんにとっても。我々は物語の中で踊らされたりしているけれども、ファクターだけをきちんと追っていく箱山をずっと置いているということが、この作品の希望でもある気がするし。だから、稲葉さん(筆者注:今回の「幽霊はここにいる」を演出した演出家)も、箱山の位置を一番気にして、考えてますよね。

木村 それも稲葉さんと最初に話したんです。どの領域から俯瞰で見ているかって言うのは箱山のテーマだから、一緒に考えていきましょうと。あまり俯瞰しすぎると箱山だけどこかに飛んでいってわからなくなるし。基本的に、舞台上の枠から外れたところにいるんですけど、現在進行形で今も考えています。

八嶋 特に前半は、箱山は砂場にいなくて足腰が持っていかれることがないから、俺らは羨ましいです。な(と神山に)。

神山 な(笑)!

(舞台「幽霊はここにいる」パンフレット 鼎談)

気狂いじみた北浜の人々の輪の中に、箱山が入っていくことはない。彼はあくまで傍観者であり続け、常に幽霊の存在を疑ってかかっている。…のだが、その箱山が何故幽霊を信じていないのかというと、実は彼が正気を保てているからではないのかもしれない。

「箱山さんは結末のことを考えているだけよ」

これはミサコが箱山に言い捨てるセリフ。箱山は鳥居弟にクビにされて以降、反市長派の勢力と近づき、おそらく「幽霊など存在せず市長たちがデタラメばかり言っていることを証明してほしい」などと言われ(というのはセリフを基にした私の考察だが)、大庭や深川を追いかけ続けている。その中で、「深川」に見える「幽霊」の存在は信じていつつも「幽霊ビジネス」には懐疑的なミサコを取り込もうとしたのだが、こう言われて箱山は面食らってしまう。

続きの話をするために少し話が逸れる。実は私、この舞台の感想を仲良しのオタクが数名いる鍵垢で書き殴っており、その中の一人(神山担でないどころかWEST担でもない)が強く興味を示してくださったので、彼女のために一般再販チケットを取って観劇してもらった。何をしてるんですか?というツッコミは受け付けかねるが、彼女は私のようなひよっこオタクなんかより数段思想が強く(褒め言葉です)、また私がそれほど感想を垂れ流していなかった箱山の立場とこのミサコのセリフについておもしろい感想を伝えてくださったので、彼女に感謝しながらありがたくこの場で引用する。

幽霊ビジネスでもアイドルでも、「ない」ものを「ある」と思わせるビジネスモデルには実体がないから、各々が各々の中で勝手に物語を組み立てるわけだけど("小説"というわかりやすい形でそれが可視化されていた箱山だけじゃなくて、大庭や市長、鳥居なんかも。そしてミサコ自身も。それに関わる人びとはみな「深川」から聞いた断片的な情報と「深川」を通した実体など見えない幽霊の存在から、各々の中で"幽霊"という虚像と「深川」という男(虚像)の物語までもをつくりあげていた)「自分が信じようと思った情報」と「自分が信じようと思った存在」(=実像)の上に好き勝手に延長線を引いたり、生クリームを乗せてアラザンを散りばめたり、そういうことを繰り返して出来上がった虚像と物語に沿う思い通りの結末が欲しいだけだという点では、彼らを嘲笑し自分は彼らとは違うと一線を引いているようなことを言っていた箱山までもが、幽霊ビジネスに乗せられている人たち、「深川」を信じている人たちと同じ穴の狢だということを客席に突きつけてる台詞でエグい

思想が強くて助かる。ありがとうございます。

実は「アイドルビジネスは『ない』ものを『ある』と思わせるビジネスの極めつけみたいなもの」という考えも彼女が(私がこの舞台を観劇する数ヶ月前に)言及していて、私はこの舞台を観劇したことで彼女がそう言っていたのを思い出してさらにこねくり回してこのブログに書いているのだが、そんな彼女が観劇してこぼしてくれたこの感想も、なるほどなと思わせるものであった。

木村さんも言及している通り、箱山は北浜という場に在る人物の役なのだから、俯瞰しすぎて物語の文脈から逸脱した単なるストーリーテラーになってはならない。と同時に、傍観者でしか在り得ない観客と他の登場人物の間に立ち、「幽霊」の存在と幽霊ビジネスを疑わせる立場である必要がある。…と私は考えていたのだが、確かにその役割を果たしていつつも、箱山もまた「幽霊」が――いや「深川」が何をしでかしてくれるのか、権力者とは全く異なる形で期待して自分に都合の良い結末を望むようになったいち登場人物にすぎないのである、という彼女の説明もなるほど腑に落ちた。

 

また、パンフレットを引用したにもかかわらずここまで「砂場」に触れてこなかったことを反省したい。この舞台は床の真ん中が円形にくり抜かれていて、そこに砂が敷かれている。その砂場をぐるっと囲むカーテンのように紗幕があり、役者やアンサンブル、そこに紛れた裏方の皆様がその舞台を自在に操る。例えばヒカリ電気の入り口は上部に「ヒカリ電気」と書かれたフレームのような大道具がありそれを砂場に立てて砂ごと圧し固めることで立たせているのだが、四方八方からヒカリ電気にやってくる客や幽霊を迎えるためにその入り口ごとキャスト自身で動かしたりする。幽霊服のファッションショーの場面では砂の下からレッドカーペットが出現する。「幽霊」がミサコと結婚したいのにミサコが断固として受け入れないことに頭を抱えた権力者たちが犬かきのように砂を掘り返し(てそのレッドカーペットを隠そうとし)たりもする。そうした舞台演出の機構としての面もあれば、砂場に立つ登場人物の不安定さを見事に表現してもいる。箱山は中盤までその砂場の外にいることが多いという話を先ほどの鼎談で3人がされていた、ということである。かなりどうでもいいが、開演30分ほど前から砂が舞台に撒かれ整えられていく音が聞こえてきたのが懐かしい。演出面については最後にも話したいのでこれもまた後述。

 

 

「幽霊」と「深川啓介」と

ブログも後半に差し掛かってきた。文字がギチギチの上に堅苦しい言葉が多くてオタク各位には読みづらいかもしれないけれど、実は演劇をほんの少し齧っていた筆者の意地でこの舞台から感じ取れたことを最大限言語化したいと考えている(LUNGSのときは尻切れトンボになってしまった自覚がある)ので、もう少しご辛抱願いたい。

神山くんが演じていた「深川啓介」、もとい吉田の話をしよう。この役はラストシーンまで「深川」として扱われるので、これまで通りほとんどの場合では鍵括弧をつけて「『深川』」と表記する。

初見と2回目の観劇で最も大きく印象が変わったのがこの役だった。初見は「可哀想」に見えたのに、2回目以降は、もしかしたらこの男が最も狡猾で欲深いのではないかとすら考えるようになった。

 

「深川」は、少年を思わせるほどに純粋な目をしてその場に居た。「深川」が話すことには裏付けがなくても、ちょっぴり胡散臭くても、「彼が言うならそうなのか」と感じさせる何かがあった。大庭のような強さでも、ミサコのようなまっすぐさでもない。神山くんのファンとしての贔屓目を抜くことは不可能なので開き直るが、かわいかった。実際大庭も明らかに「深川」を可愛がっていた。「深川」が頭痛に苦しんでいたら「どうしたの~?」と猫撫で声をかけたくなるし、彼が「『幽霊』はここにいる」と言ったらもうそういうことにしてしまう。とても嘘を吐いているようには見えないから。

実際彼が嘘を吐いていたという決定打は最後までどこにも語られない。箱山でさえも(「あの可哀想な男の頭の中には」)「幽霊」がいると考えていたし、他の誰にも見えていなくても「深川」は「幽霊」と対話し、「幽霊」の考えを登場人物に伝えてくれていて、観客である私たちもそれを傍聴していた。

どんどん調子に乗って欲望を肥大化させていったのは「幽霊」であって「深川」ではない。

 

「君は、苦しまぎれに、頭の中で君とおれとを入れかえちまったんだな」

 

…あれ?

 

突然やってきた本物の深川啓介に「幽霊はここにいる(『幽霊』など最初からいない)」と言われることで、いつの間にか当たり前に思えてきていた前提条件が何もかも崩れ去る。「深川(吉田)」にも「幽霊」が見えなくなり、観客も思わず驚いてしまう。傍観している私たち観客も、「幽霊」が暴走したことですっかり「幽霊」がいることを疑わなくなっていたその矢先だから。

……ひとまず飲み込むしかない。「幽霊」が「深川」の幻覚であったことが頭に強制インプットされたが、その頭で冒頭から見返してみると、「この男、もしかしてとんでもなくずる賢いのでは…?」と思わざるを得なくなるのだ。

「大庭が『深川』を利用してビジネスに彼らを巻き込んだ」のではなく、「『深川』が大庭に利用されたことを利用してビジネスを無意識的に肥大化させ、欲望を実現させていた」と考えることはできないだろうか。私は2周目をそうやって楽しんだ。

 

「欲深い大庭に乗っかれば、名誉や富、そして素敵な女性(ミサコ)も手に入れられるかもしれない」と、「深川」がたくらんだとは考えられないだろうか。少なくとも「幽霊」はそう考えていたのだから、そして「幽霊」は「深川」の幻覚なのだから。

そう考えた「深川」が大庭を泳がせ、「幽霊」の代弁者として後援会発会式でスピーチをできるような力を得て、「幽霊」が暴走して後援会会長になりたいだの市長選に出るだのミサコと結婚したいだの言い出した、あくまで自分はそれを代弁しているだけだ!ということにして、「深川」自身はそんな欲望丸出しの「幽霊」に戸惑っているという設定にしたと考えれば? 「幽霊」が市長になったら、「幽霊」の野望(=自分の野望)を市政に反映することだって不可能じゃない。「幽霊」がミサコと結婚できれば、ミサコと直接対話できない「幽霊」の通訳として「深川」自身がミサコと一緒に居られる。もしそれらに失敗しても「幽霊」のせいにしてしまえば、「深川さんは悪くないよね」ということにできる。

 

…あまりにも救いのない考察だが、「深川」がこうして考えるのがすべて無意識下のことだとすれば、あながち間違いではないとも思える。そう考えるに至ったのには、ラストシーンのとある「深川」のセリフが大きく影響している。

 

「畜生」

 

本物の深川啓介がやってきてネタバラシをされたことで、「深川」に見える「幽霊」を中心に行っていたビジネスが、完璧に近かったビジネスが、砂の如く全て崩れ去った。もし完全に「幽霊」と「深川」は完全に別人格で考えることもまるきり違って、「深川」が「幽霊」の暴走っぷりを本当にあくどいと感じていたとすれば、本物の深川啓介、つまり「深川(吉田)」の戦友に生きて会えたことにまず感動しないだろうか? 感動の再会の場面で「畜生」という言葉は出てくるだろうか?

戦友を死なせた(まあそれも勘違いだったわけだが)罪の意識から「幽霊」という幻覚が見えるようになったのは、少なくとも「深川」にとって事実だろう。その意識から「『幽霊』を連れて帰ろう」、「戦友の家の人に信じてもらえなかったことで『幽霊』の身元が分からなくなったらその証拠を探そう」と考えたのも、欲望ではなく純粋な願いだったのだろう。「鏡を見ると頭痛がする」という性質も、頭の中で考えることと見えるものが一致しないことへの苦しみからそうなっているのだろう。戦争に適応できるほど心が冷徹ではなかったせいでそういった苦しみを抱えたのは嘘ではないと私も考えている。

 

「まあそれが、深川氏のいつわらざる内心の声なんだろ。金と結びつきゃ、なんだって現実になっちまうからなあ」

 

けれど、欲望の塊のような人間である大庭と出会い、実際に幽霊ビジネスでお金を稼げて力も得られることに味をしめ、内なる欲望が「幽霊」という幻覚と結びついてどんどん肥大化し、(アスピリンの過剰摂取による幻覚症状の深刻化も相まって)物語の終盤ではほとんどそうした欲望に乗っ取られてしまっていた……と私は考察する。それらが本物の深川啓介なる人間の登場によってすべて土に──砂に還ったとき「畜生」という言葉が「深川」の口からこぼれてきたのは、そうした欲望(「幽霊」)に乗っ取られていたことの証左。

実際に良心の呵責で苦しんでいた(ことが殴られる幻覚、さらなる頭痛に結びついていた)のも嘘ではないだろうから、本物の深川啓介がすべてから「深川(吉田)」を解放させたことは、少なくとも彼の身体にとっては間違いなく良いことだったし、実際彼は「畜生」という「幽霊」の捨てゼリフを最後に吹っ切れていたようだった。

「幽霊がいる」という話はファンタジー性が強いが、「幽霊が見える人がいる」という話は一気に現実性を帯びる。この3時間の舞台において最後の最後まで「幽霊」役を演じる人間を立たせなかったのはそういう意図があると私は考える。この物語は決してファンタジーではない。

 

 

2022年にこの作品をアイドル主演で上演する

これまで3人の登場人物にフォーカスしてブログを進めてきたが、最後に誰にフォーカスするかと問われれば、「稲葉賀恵さん」と答える他ない。既に何度か言及しているが、この舞台「幽霊はここにいる」を企画段階から立ち上げた演出の方である。読売演劇大賞優秀演出家賞受賞おめでとうございます!今から全くもって頓珍漢かもしれないことを言いますが、違ったら「違うよ!」と言ってください(言われない)。

 

私は神山くんが発する言葉がとても好きで、彼が舞台に出演するときにインタビューを受けている雑誌はほとんどすべて買うのだけれど、稲葉さんとの対談が載っているステージスクエアがとても興味深かった。

稲葉 それと、私の場合"死んだ人間を忘れない"というテーマが、作品を選ぶ時の指針になっているんです。

(中略)

稲葉 私は20代のころに、昔の戯曲を上演する=この人たちの記憶を再現する行為なんだなと実感したことがあるんです。つまり俳優は、死んだ人をそこで再生させるイタコのような存在なんだな、すごいなって。そうだとしたら演劇って、すごく"忘れないでいられる芸術"のような気がして。そういうこともあって、若い人たちにぜひ観て欲しくて、この作品を選びました。

神山 なるほど。

稲葉 もうひとつ、この戯曲に書かれている、見えないものを信じることの奇妙や、資本主義の神髄みたいなことが、実体のない仮想空間とかキャラクターがどんどん受け入れられている今に、すごく繋がっているところにも惹かれました。

(日之出出版「ステージスクエア vol.59」36-37ページ)

神山くんがワンピースについて話してるところをバッサリ中略してごめん。

「見えないものを信じることの奇妙や、資本主義の神髄みたいなことが、実体のない仮想空間とかキャラクターがどんどん受け入れられている今に、すごく繋がっているところ」については大庭に関するブロックで概ね触れたことだが(この後も別に触れます)、前半の「演劇って、すごく"忘れないでいられる芸術"」という言葉。この舞台のコピーに「『死者』と『生者』のカーニバル」というものがあるが、夥しい数の死者の上にこの舞台が成り立っていることに着目したいという演出意図の根源のようにも感じる。彼女はこの作品を完全なファンタジーとして現代社会から切り離すのではなく、ドキュメンタリーとして描きたかったのではないかと思うのだ。もちろんすべて安部公房氏の頭の中で創造された架空の物語であることは間違いないのだが。幽霊を信じるか信じないかはあなた次第だとしても、「幽霊が見えると言う人間がいる」ことは、その人間が胡散臭かろうが精神疾患を患っていようが事実として飲み込まざるを得ない。人間が考える感情豊かな生物である限りこの物語と同じことが現実に起こる可能性は存在する。というか、似たようなことは既に数えきれないほど巻き起こっている。

「しかし、彼の幽霊なんか、まだまだ素朴で、可愛らしいほうじゃないのかい?……世間には、そりゃいろいろな幽霊がいるからねえ……本当だよ……人間の命に係わる薬が、原価の十倍もの値段で売られているのは、どう考えてもおかしな話だし、それよりも、ガラスより役に立たない宝石が、ぼくの月給より高い値段で売られているのはもっとおかしい……要するに全部が全部幽霊みたいなものじゃないか……」

これは初演時の脚本にのみあった箱山のセリフである。再演時(1970年)には一部改稿されており、その際の脚本と2022年に上演されたこの舞台のこの部分は「それよりも」以下のセリフがごっそり削除されている。八嶋さんはこうした安部公房氏が行ったセリフの削除に対して、先述の鼎談の中で「それは、台詞で説明しなくても役者の表現で大丈夫だと思ってくれた証拠ですから」と話しているが、まさにそういうこと(役者の表現への期待)だと私も考える。同時に、セリフで説明しなくても観客がそう受け取ってくれるだろうとも思ってくれた証拠(観客の理解力と創造力="観る力"への期待)だとも思う。だから精一杯考えてこうして文章にしたいのだ…!

「全部が全部幽霊みたいなものじゃないか」という箱山の嘆きは、この約70年でどうしようもなく加速している。先ほども話したがアイドルなんてその代表格みたいなものだし、極端なことを言えばホストだとかVtuberとかも多分そうだ(詳しくないのでこれらへの言及はできかねる)。この世界で「娯楽」にカテゴライズされる可能性のあるものはほとんど幽霊ビジネスと同じ構造だし、なんなら食品にだってテーマパーク価格みたいなものがあったりする。目に見えるものであろうとそうでなかろうと、現代人は「それにその値段を払う価値を感じるか」を無意識に判断する行為を無限に繰り返しているのだ。この作品を、2022年に、渋谷のど真ん中に位置するPARCO劇場で、アイドルという職業を全うする神山智洋さんに主演させて、彼のファンをはじめとする若者たちに見せることで、あまりにも無意識にそうしてきた現代人にそれを「気付かせたい」と稲葉賀恵さんが考えた……のではないかと私は感じたわけだ。夢のない話をしてしまえばアイドル事務所最大手のタレントを起用すればある程度の集客は間違いなく見込めるし、そうした(普段演劇を観ないような)(アイドルのファンをしている若い女性がほとんどの)客層だからこそ観客に訴えかけたいと思うようなものもきっとある。アイドルが舞台に立つことに未だに眉を顰める人も多いが、この作品を2022年に持ってくる上では、大都会の中心でアイドルに演じさせアイドルのファンに見せることに大きな意味があるのではないかと思う。そこに白羽の矢が立った神山くんはすごいし(急に貧弱になる語彙)、神山くんのファンである私たちも期待をされたわけなので全身全霊で観劇してこの舞台が伝えんとしているものを汲み取りたいのだ。「LUNGS」といい「幽霊はここにいる」といい、神山担は難題ばかり与えられている気がする。

 

先ほど「私にとって神山くんは存在するけど幽霊みたいなもの」みたいなことを抜かしたが(概要それなんですか?)、貨幣でものとサービスを売買する経済社会が破滅でもしない限り、この世界に「絶対に幽霊ではないもの」は存在しないとすら言えると思っている。幽霊ではなくとも幽霊なのである。幽霊はここにいるどころかどこにでもいるし、それは成仏し損ねた半透明の亡者のかたちをしているとは限らない。私が好んで飲んでいるド○ールのココアだって幽霊と言ってしまえば幽霊なのである。家でココアパウダーをお湯に溶かせば10分の1以下のコストで飲めてしまうわけだし。今ココアの例を挙げたのはココアを飲みながらブログを書いているからだが、もう例を挙げるとキリがなさすぎる。

そんな世界で私はこのド○ールのココアの甘さと優しさに1杯400円の価値を感じて注文しているし、神山くんというアイドルに対してはこれまで彼の関わるコンテンツにウン十万とお金を出してきたが(これはオタクとしては謙遜抜きにまだまだである)、すべてそうするだけの、なんならそれ以上の価値を感じているからそうしているだけだ。この世に幽霊じゃないものなんて存在しないんだから、私は私が価値を感じるものにお金を払って私が信じるものを信じる。何も信じられないかもしれないこの時代に、私は、神山くんというアイドルを信じるのです。某雑誌のコピーをもじっていい感じにまとめたみたいな雰囲気を出すな。

……というのがアイドルのファンがこの舞台を観劇して考えたことですが、いかがでしょうか。

 

最後に。

最後の最後のワンシーン、他の登場人物が紗幕の奥で崩れていく中で舞台が赤く染まり武器を想起させる効果音が流れ、変わらず薄汚れた国民服のような服装で「深川(吉田)」が一人、何かに怯えたような顔をして歩いてくる演出がある。これは原作にはない演出で、おそらく稲葉賀恵さんがオリジナルでつけたものだと思われるが、この舞台を観劇した方はこのシーンをどう捉えただろうか。

「この物語そのものが『深川(吉田)』の幻覚または夢想で、本当はまだ第二次世界大戦中」?だとしたらもっと「深川」にとって都合の良い展開になっていい気がする。

私はこのシーンにこそ、2022年にこの作品を上演する意味があると捉えた。

戦争はもはや遠い世界線のものでも歴史上の事実でもなく、たった一つ海を越えた先でまさに今起こっている。この"ドキュメンタリー(仮)"で描かれたようなことが世界のどこかで実際に起ころうとしているかもしれない。平和からかけ離れた空間で追い詰められて幻覚を見る人間が出てきて、そうした空気により多くの人間が踊らされる事態に直面したとき、あなた(観客)はどうしますか? という問いかけなのではないか。

この登場人物のように振る舞うのがいい、という正解や最適解はない。強いて言うなら、ミサコのようにまっすぐに生きて譲れないものを持ち、箱山のように事態を冷静に見渡し、大庭夫妻のように世の中を乗り切っていくことだろうか……極限状態でそんなことができれば苦労はしないが。

このシーンについてはかなり解釈が分かれると感じたのであえてこれまでの文章では触れずにここでだけ言及することにした。異議があればどうぞ聞かせてください。あなたの解釈を私も聞きたいです。

 

 

あまりにも長ったらしくいろいろと書きたいことを書きたいだけ書いてしまったが、本筋と関連しない感想はたくさんある。かわいかったとか。アドリブでファンを喜ばせてくれてありがとうございましたとか。唐突に自担がキレよく踊り出して嬉しいながらもびっくりしましたとか。そのダンスシーンは原作にはなかったから神山くんの技量を見て稲葉さんが入れてくださったのかな、そうだとしたら私まで嬉しいなとか。八嶋さん(大庭)も日に日に神山くん(「深川」)に対するかわいがり方に拍車がかかってましたよねとか。モデル嬢役のまりゑさんの立ち振る舞い方が(アンサンブルとしていたときも含めて)とても好きだったので春に出られるミュージカルもぜひ観劇したいですとか。

また、この舞台を数年後の私が思い返したらまるで違ったことを感じるかもしれない。そのときのためにもこの文章は残しておきたいし、そういえばこんなところがあったよね、という話はちょこちょこTwitterで呟いていきたい。幽霊に囲まれて生きていることを自覚しながら、幽霊に怯えず幽霊とうまくやっていきたいものです。

この作品を死ぬまでに、またアイドルとエンターテインメントを好きでいられる間に観ることができたことは私にとって間違いなく貴重な経験になりました。神山くんを好きでいるからこそ出会える作品は深く考えさせられるものばかりで、同時に私という人間及び観客がまだまだまだまだ未熟であると観劇の度に感じます。何事にも全身全霊で向き合う神山くんに恥じないくらい、私も全身全霊であなたの見せてくれる作品を咀嚼したい所存です! 2023年以降も神山くんが素敵なエンターテインメントに恵まれますように。そのときはなんとしてでも観に行きますので。

千穐楽から3週間も経ってしまいましたが、これが私なりの「幽霊はここにいる」ブログです。ちょうど20000字になりそうなのでこの辺りでドロン。素敵な舞台を見せてくださって、出会わせてくださって本当にありがとうございました!